あなたは考えた事があるだろうか
自分の発した言葉がどれほど他人に影響を与えるのかを
同じ言葉でも捉え方が人によって異なることを

「自分の言葉に責任を持つ」
この言葉に対して実行しえる人はいったいどれぐらいいるのだろうか?
例えば、「私は○○をする」と言ったとしよう。
私はその言葉の通り○○をする努力をし、成し終えたならその言葉を実行した事になるだろう。
でも、日常会話でそのような宣言のような言い方をすることは少ないだろう。
よって、普段の会話から「言葉に対する責任」について考えてみる。

人はよく他者の事を話題にすることが多いだろう。
アノ人が好きだ、嫌いだ、いい人だ、悪い人だ、親切だ……etc
では、その言葉を発する人はその言葉にどれほどの責任を持つと言うのだろうか?
「言葉にする」という行為は同時に他者に伝えることに繋がる。
よって、誰かを好きだ、嫌いだと言った内容は同時に自分以外の誰かに伝えたことになる。
自分の発するこの他者に対する評価に相手がどのように感じ、捉えるのか。言葉の責任はこの辺に由来するのだろう。
人と人は必ずしも同じ人を好きになったり嫌いになったりと同じ感情を持つわけではない。
自分が嫌いな相手でも相手にとっては好きな人かもしれないし、自分が悪い人だと思っていただけで本当はいい人なのかもしれない。
感情の分岐はとても複雑なものだ。言葉一つで表すことはとても困難だし、そのときの自分の感情に責任を持つ事もまた難しいことだろう。

言葉とは非常に複雑なものである。
同じ言葉でも人によって捉え方が違うのはよくあること。
同じ文字(ひらがな)でも漢字に変換すると別の意味を持つ。また発音も同じことだ。
また、日本語は非常に曖昧な表現が多々ある。「…かも」「たぶん…」「きっと…」「…らしい」…etc
これらはすべて断定的な言い方を避けている。発言に自信がないときの現われだろう。
これはこれでいいのではないかと私は思う。
「濁す」という行為は確実なもの言いを避けることになり、相手に与える先入観とダメージを軽減すると思うからだ。
時と場合により用途は異なるが、そのような使い方もまた一興なのだろう。

私の物言いはかなりキツイらしい。
自分で意識したことはないが、他者から見れば私の言い方はかなり厳しいらしいのだ。
率直に思ったことを口に出すことが多いのでその辺の事を言われているのだろう。
そのことで他者を泣かしたコトもあるし、ケンカをした事も決別したこともある。
そのことについて後悔したことがないと言えば嘘になるだろう。
あの時、もっと物言いを優しくしていたならと思ったことがあるのも少なからず事実だ。
でも、それらは今更どうすることも出来ない過ぎ去った事実だ。

では、人に聞かせる他者の評価はどのようであるべきなのか。
自分の率直な意見をいい、相手が同意又は否定するのは普通の流れだろう。
また、「人の悪口を言うな」というのは不可能な事だろう。
では、最低限の礼儀だけは守るべきではないのだろうか?
人を良く評価することは誰に聞かれても差し障りはないだろう。また話題にのぼった当人も悪い気はしないだろう。
しかし逆の場合は確実に他者を傷つけることになる。
自分が嫌いだと言われていると知って傷つかない人はいないだろう。
気には留めなくても多かれ少なかれ悲しむ事になるのは確かだ。
人間は強い者ではない。どんな人でも平等に弱く、傷つきやすいモノだ。
言葉は絶大な威力を持つ。本人の自覚のないままに他者を傷つけるのも容易だ。
本人の口から直接悪口を言われるのなら言い返す言葉もあるのかも知れないが間接的だったら性質も悪い。
「言葉に責任を持つ」とは言葉を発した時点で自分とその言葉を聞いた他者との秘密の共有になるのだろう。
言葉は発した人間だけでなく聞いた人間も同等の責任が必要になるのだ。
自分が話したこと、聞いたことすべてにソレが誰に対しどのような影響を及ぼすのか考えろとは言わない。
ただ、他者に対して何らかの影響を与える事だけは確かだと覚えておいてほしい。
人と付き合い、会話する上でとても重要なことなのだから…。 


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